8月9日「長崎原爆の日」77年前に長崎で起こったこと

8月9日「長崎原爆の日」77年前に長崎で起こったこと

8月9日は、長崎原爆の日でした。広島への原爆投下から3日後の出来事でした。アメリカは、広島への原爆投下を「太平洋戦争を終わらせるために必要だった。」とその行為を正当化していますが、そのわずか3日後に再び原爆を使用したのです。それは本当に必要だったのか。広島ではウラニウム爆弾が使用されましたが、長崎ではプルトニウム爆弾が使用されました。いずれにしろ、これにより日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのです。
私たちは、この原爆投下により表出した筆舌に尽くしがたいほどの悲惨と深い悲しみを、胸に深く刻み、唯一の被爆国として二度とこのようなことが起こらない様語り伝えるとともに、その思いを世界に向けて発信し続けなければいけないのだと思います。

以下は、ハフポスト紙の日本版編集部2022年8月9日7時0分のネット記事からの引用です。
その日の出来事が細かく説明されていますので、引用掲載させて頂きました。

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【長崎原爆の日】77年前の8月9日に何が起きたのか、写真とともに振り返る

1945年8月6日、世界初の原子爆弾(ウラニウム爆弾)「リトルボーイ」が広島に投下されました。
その3日後の午前2時47分、太平洋に浮かぶ北マリアナ諸島のテニアン島からプルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B29「ボックス・カー(Bockscar)」が離陸。
米軍の記録によると、ボックス・カー号は午前8時15分に屋久島に到着。午前9時44分、投下の第1目標であった福岡県の小倉市(現北九州市)に到達した。当時の小倉市には、西日本で最大級の兵器工場がありました。
しかし、小倉付近はもやと煙で覆われており、視界不良のため投下を断念。原爆の投下は、レーダーではなく目視で行うことを厳命されていたのです。視界不良は、前日の八幡大空襲による火炎が影響したとも言われています。
ボックス・カー号は、第2目標だった長崎に移動。午前10時50分に長崎に到着しました。長崎には、三菱重工長崎造船所があったことが目標となった要因であると考えられます。
機長チャールズ・スィニー少佐の手記によると、長崎も同じく雲に覆われていましたが、燃料切れが近づく中、爆撃手が雲の切れ間から市街をわずかに確認。そこは、三菱グランド、三菱製鋼所、同兵器製作所にかけての中間地帯で、急遽そこに投弾することとなったのです。
そして、高度9600メートルの上空から原子爆弾(プルトニウム爆弾)が投下されたのでした。
爆弾は松山町171番地の上空約500メートルでさく裂。爆発によって発生したすさまじい爆風と熱線、放射線は街に甚大な被害をもたらしました。
爆心地から1キロ以内の区域では、強力な爆発圧力と熱気によって、住民のほとんどが即死したといわれています。家屋やその他の建物などは紛砕し、爆心付近は同時に焼失しました。建物の下敷きになり多くの人が亡くなり、破壊した窓ガラスのかけらが人の体にささったといわれています。そして、同時に強力な火災が発生しました。
当時、長崎の人口は約24万人。原爆の投下によって、そのうち7万人以上が1945年の年末までに死亡したと言われています。
1950年に発表された長崎市原爆資料保存委員会の報告によると、死者7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計されています。なお、このほかにも1927人の行方不明者がおり、いずれも亡くなったと考えられています。
また、原爆の熱風などによって亡くなっただけではなく、放射線によって多くの方が亡くなった。原爆が爆発した際の放射線だけでなく、爆発した際に燃え残った物が降った「死の灰」や、放射性物質がほこりとともに雨となった「黒い雨」などによって多くの被害が生じたのです。」

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文責:HP担当 藤原

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